To Here Knows When ノート



2012年 7月 8日 14時13分、インターネット上であるニュースを見かけた。


『荒治療!?琵琶湖の外来魚駆除に電気ショック導入 滋賀県、一網打尽狙う』の見出しではじまる。

文章は次のように続く。


「電気ショッカーボートは、前方に電極が2本とりつけてあり、水中に垂らして水深2メートルの範囲に500~1000ボルトの電圧をかけることができる。感電して気絶し、水面に浮かび上がってきた魚の中から外来魚だけを選んで網で捕獲する。気絶した魚は数分すると回復するため、固有種の生態に影響はないという。・・・」


この記事においての「外来魚」とはブラックバス、ブルーギルと呼ばれる魚のこと。

2012年のこの時点で、自分の中の「ブラックバス・ブルーギル」という魚の印象は、淡水魚であり、主に、池などに住んでいることが多い、わりと元気な魚であり、ルアーで釣れる、自分も中学生の頃に家の近くのため池でブラックバス相手にルアー釣りをしていたことがある、だった。

しかし、この記事を読んで気になったことがあった。

「外来魚・駆除」という言葉。

なぜ、外来魚であるとされるこれらの魚たちは駆除されなければいけなかったのか?

「駆除」とは?

「外来・魚」とは?


ブラックバス(Black bass)とはMicropterusに属する一種または全種を指して用いられる俗称であり、日本では主に、オオクチバス、コクチバス、フロリダバスなど、日本各地に生息する種を指す。

自然分布域・原産は北米大陸であり、五大湖周辺からミシシッピ川流域、メキシコ国境付近までの中部および東部、フロリダ半島などに広く分布し、汽水域でも生息可能。

河川や小沼に生息し、他の魚類や水生節足動物、水面に落下した昆虫なども捕食する。

原産地アメリカでは食用淡水魚として流通しており、ゲームフィッシングの対象魚としても利用されている。

繁殖力が強く、養殖も容易である。

日本に最初に移入されたのは1925年、政府による食料増産計画の下に食用・釣り対象魚として、赤星鉄馬がアメリカからオオクチバス(約90匹)を持ち帰り箱根の芦ノ湖に放流した。

以降、各地への試験的な放流、進駐軍による部分的な拡散、釣り具業者による放流、他の養殖稚魚に混入して放流、個人による放流などがなされる。

魚食性が強く、生態系(在来生物層)への影響およびこれらによる漁業被害が問題視され、漁業調整規則で無許可放流が禁止されるようになるが、その後も人為的な放流によって生息域を拡大。(1970年代)

後、ほぼ日本全国に分布。

「日本の侵略的外来種ワースト100」、「世界の侵略的外来種ワースト100」に含まれている。

ブラックバスが日本にやってきてから100年近く経った2004年、「外来生物法(特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律)」(平成十六年六月二日法律第七十八号)により、ブラックバスのうちオオクチバスおよびコクチバスの輸入、飼養、運搬、移殖を、原則として禁止することとした。


― だから、増えすぎたブラックバスは、捕まえて殺す。―


在来生物にとって悪影響で、生態系・生物多様性のバランスが崩れる、漁業など人間生活に支障をきたす、から。

ブラックバスは日本において「悪者」として扱われる側面がある。

駆除の具体的な方法は、釣る、投網、刺し網、定置網、銛や水中銃、電気ショック、池などを減水させて捕獲する。そして、孵化の阻害、産卵床の埋没・除去、不妊化オスの放流などがある。

しかし、自然の河川において絶滅させることは事実上、不可能である。


もし、これらの関係を人間世界のことに置き換えたなら。

例えば、日本に海外からやってきた・連れてこられた「外国人」と称される人々、それらの人々と日本人が交わること、又は、文化・価値観の移入とそれによる影響、などだろうか。

ある一つの限られた地域(国)において、外国人との交配は問題があるのか?それは排除するのか?新たな多様性として共存の道を探るのか?もしくは、自身が「外国人」として他の地域に移動したなら。

そして、文化・価値観の移入・移動の肝となるのは「オリジナリティ・固有性」にどのような影響があるか。

生物で言えば在来の、文化的価値観で言えば従来のとでも言える、それら生活に根ざしたように見えるものを守るのか、影響自体を拒絶するのか、影響に合わせて変化させるのか、失うことにするのか。


人間という生き物が持つ価値観、ある固有の場所、「国」という見えない境目。



―「日本らしき」もの。―


では、日本という地域・国のオリジナリティとは何だろう。

日本のオリジナリティというものが存在するのだとしたら、いつもそれにつきまとうのはある種の「曖昧さ」でなのではないか。

相撲であり、着物であり、水田稲作であり、日本語であり、桜であり、寺であり、とイメージできるものは様々にある。

しかしそのどれもが日本国外に類型を持つ、もしくは原産を有するという歴史もある。

これは日本という国号が成される7世紀以前から、列島の島々は海に代表される水域を交通網として、東西南北、人や物の交流があり、アジア大陸、東南アジアの島々、そしてさらに南の島々などからの影響を強く受ける環境だったという地理的理由があることからも不自然なことではないと考えられる。

そして西から東に向かって大陸を移動してきた文化・経済・宗教・価値観などが太平洋を水底(はて)として最終的に日本という土地に落ち着くという航路のかたち。

流れてきたものが留まり、それらが元々あるものとない交ぜになって変化し、熟成されてゆく地形。

それらの変化は「日本」という国を成しても終わることがない。

外部からの影響によるもののみならず、能動的な変化もある。

しかしそれは必ずしも幸福な形であるとは限らない。

明治時代の鹿鳴館の成り行きにも見て取れるように、外国に主ねって着物を脱ぎ、髷を折って洋服に身を包んだとしても、一つの国としての確かな認識を得られなかったという現実だってある。

第二次世界大戦による敗北とともに、それまで日本国が掲げていたあらゆる意味においての「日本らしさ」というものは一掃され変化を促されてきた、という歴史もある。

そんな、日本という国のかたち。


自らが食用として移入した、他者が文化として移入した、そんなブラックバスが在来生態系を駆逐する。

しかし、それらを駆除しようとしても駆除しきれない現実は

近代であれば、戦後の日本がアメリカ産の何かに強く影響を受けずにはいられなかったように、明治時代に自ら髷を折り着物を脱ぎ棄てた日本人のように、外部の影響や自らの行いによって「日本らしさ」を良くも悪くも駆逐していった結果、「日本らしさ」というかつての実態を失っても、「日本」という国・名称だけはどうやら存続している「らしい」、という、まるで空洞のような世界を生きている自分たち自身のようでもある。


― ブラックバスを殺したところで、ブラックバスの「物そのもの」は消えはしない。

単に、ブラックバスの現象をなくしたばかりだ。―



―「みたいなもの」の姿 ―


日本らしさって何だろう。

そして、国とはいったいどういったものなのだろうか。

国を象徴するもの、国旗、国歌、国技、国章、国石、国璽、国花、国鳥、その中の一つに国獣というものがある。

日本国を象徴する国獣とは魚の「鯉(コイ)」である。


コイ・鯉(Cyprinus carpio)とは、コイ目・コイ科に分類される魚のことを指す。

本来の分布域・原産は中央アジアとされる。

環境適応性が高く、食用としても養殖・放流がさかんに行われたため、現在では世界中に分布している。

比較的緩やかな川や池、沼、湖などに広く生息する淡水魚である。

雑食性で、水草、貝類、ミミズ、小魚や他の魚の卵、昆虫類、甲殻類、カエルなど口に入るものであれば何でも食べる。

日本において在来型と外来型が存在するが、在来型の存在が判明したのは2000年代に入ってから。

現在河川などで見かけることができる鯉は外来型の養殖化が進んだもの、それらの放流、そして在来型との交雑が進んだものがほとんどであり、在来型が存在するのは一部の水域のみとなっている。

また、黒い生態を持つ真鯉(野鯉・黒鯉などとも呼ぶ)の他に、色の付いた錦鯉も存在する。

錦鯉は19世紀初頭、新潟県の旧・山古志村で突然変異による色の付いた鯉が見つかり、これを人為的交配によって観賞魚として改良・養殖したものである。

品種改良・新品種の開発では、鱗の形質を伝える強い遺伝力があり、体型も従来の鯉より大きく、成長速度なども早いなどの特徴を備えたドイツ鯉との交配はなくてはならないものとなっている。

飛行機や船の発達により、低い損耗率で世界中へ輸出することが可能になった。

鯉は日本の国獣・国魚である。

また、「世界の侵略的外来種ワースト100」に含まれている。


「世界の侵略的外来種ワースト100」に含む。

これはつまり、北米原産であるブラックバスは日本において駆除の対象とされており、中央アジア及び日本原産の鯉は北米などにおいて駆除の対象にされているということ。

事実、北米の五大湖周辺の河川などで中央アジア原産の鯉が生態系を乱しながら大量繁殖しているという問題があり、それに対しアメリカ政府は駆除に乗り出している。

原始の姿かたちを時代の流れと共に変貌させながらもその名称を受け継いできたもの、そのような意味でも「日本らしさ」のある鯉は、国魚であり、侵略的外来種の一つであり、日本におけるブラックバスでもあったということ。


― だから、増えすぎた鯉は、捕まえて殺す。―


私の友人は外国人である、だから、あの国と私の国は仲良くあってほしいと思う。

イルカはかわいいと思うから殺さない、イルカ漁は文化であると考えるからつかまえる。

自分の腕に止まった蚊をつい殺してしまう。その瞬間には、どんな感情が真っ先にあるだろう。

生物が増えすぎたから殺す、絶滅が危惧されるから増やす、食用であるから増やす、害を及ぼすようになったから殺す。


展示内の水槽にいる鯉たちと自分は数カ月を共にしました。

しかし、この魚たちがこの水槽から外部の自然界へ、又は、国外へと移動すれば、鳥に食われることや、人間に駆除されることも、逆に、他の生物を駆逐していくことも、あるでしょう。

あらゆる種類の命について、どれほど擬人化し、立場を置き換えてみようとも、その名称・名前が変わるのみであり、もはやそれらの記号にどれだけの意味を負わせることができるでしょうか。


もし、自分の名前を改名したら別人になれるんだろうか。

自分も知らない誰かに、なれるんだろうか。


しかし、誰も死から逃れられない、 生きている何もかもはいつか死ぬ。

そして、食物連鎖により他者に食われ続けるということにおいて、上も下も無く、人間も他の生物も皆平等である。

地面に倒れれば、微生物が自分を分解してくれる。

ニンジンが養分にしてくれる。

それを、虫が、動物が、人間が食べてくれる。

誰もが魚になりチューリップになりクジラになり人間になる。


― ハエを叩きつぶしたところで、ハエの「物そのもの」は消えはしない。

単に、ハエの現象をつぶしたばかりだ。

それは、名前を変え、体を変え続けながら、世界中を永遠に移動し、生き続ける。―


日本にやってきたブラックバスは絶滅することはない。

この目の前の水槽に存在する鯉も死ぬことはない。

誰も、死なない。

わたしたち、という現象は、あらゆる透明な幽霊の複合体なのではないか、と、思うのです。